野上シロ’s blog

日々の気づきや思ったことを発信。

私の抱える障害について(ADHD編)

 ブログの文章を書くのは初めてのことなので、読みにくさを感じることが多少あるかもしれないがご容赦願いたい。

 

 私の抱える障害は精神障害である。身体の障害とは違い、注意深く観察しても判別がつかない障害だ。私の病名はADHD解離性同一性障害だ。精神障害者手帳の2級を持っている。

 

 ADHDについては、近年発達障害の認知度が高まったことによって知っている方も大勢いるのではないかと思う。ADHDは日本語では「注意欠如・多動症」などと呼ばれている。ADHDには大きく分けてふたつの傾向に分かれる。本などでは、ドラえもんのキャラクターになぞらえて「のび太型」「ジャイアン型」などともいわれることがある。

 前者の「のび太型」は集中力がなく、物忘れが多いことなどから注意欠如の傾向が高いとされている。集中力が全くないわけではなく、一つの物事に対して向き合おうとしたときに、他のことに気が逸れ、最初にしようとしたことを忘れてしまう。

 後者の「ジャイアン型」は自分の思い通りにならないと些細なことで不機嫌になったり、落ち着きがなく短気に思われがちな面がある。小さいころや小学校などで、椅子に大人しく座っていることができなかったり、自分の欲求に対してストレートであることが多い。大人になってからは、多動性が治まる人が多い傾向にある。だが、大人になって困るのは衝動性による浪費だったり、異常な行動力で協調性がなく見えてしまうことだろう。

 

 最近では、子供の発達障害発達障害グレーゾーンという言葉も普及したため、子供の落ち着きのなさから発達障害を疑う親御さんも多くなっている。ただ、あくまでも子供時代に可視化されやすいのは後者の「ジャイアン型」いわゆる多動性が優勢な発達障害のケースが多い。

 

 ここまでつらつらと説明を書いてきたが、どれも本やウェブサイトなどにも載っている情報なので、その他の発達障害などは割愛させていただき私自身のことを書いていこうと思う。

 私の発達障害のタイプは注意欠如優勢型、つまり「のび太型」である。私が発達障害の診断をもらったのは成人してからのことである。私は21のときに結婚し、はじめて家族以外の人間と住むようになって、自分の障害に気がつくことができた。それ以前は、自分はあくまでも他人と同じだと思っていたし、自分の抱える生きづらさも他の人だって抱えているものだと気がついた。思いなおしてみれば、小学校の頃から宿題の期限を守れたことは数少ないし、注意力は散漫でよく道でこけたりもした。

 精神科でIQテストを受けることになり、言語IQが130、ワーキングメモリー(瞬間的な記憶)が80と言語IQとワーキングメモリーの差が大きいため、ADHDだと診断された。今では、服薬をしているためか以前よりはましにはなったが、成人してからの私の不出来さに自分で辟易することも多い。

 

 薬を飲んでいても忘れ物はいまだに絶えない。ただ、薬を飲む前は家の鍵を閉め忘れたり、鍵を持たずに仕事に行き、後から出かけた妻の帰りを待つこともしょっちゅうあった。いまでこそ、携帯に様々な決済アプリや交通系ICのアプリがあるためなんとかなってはいるものの、財布をよく忘れレジで恥ずかしい思いをすることはしょっちゅうだった。

 仕事では、任された仕事の期限を忘れてしまう傾向のある自分に気がついていたため、任されたその日に仕事を完了させていた。そのためか、仕事ができると勘違いされがちだったため、さらに仕事を任されるという悪循環にはまったりもした。多くの職種では、出勤してからメールを確認したり、日報を確認したりする仕事があるだろうが、私はパソコンの立ち上げ設定で自動で出勤時に確認すべきことを強制的に見るように工夫をしたりもしていた。けれども、どれだけ気を付けていても不注意によるミスは絶えず、職場によってはいじめを受けたこともあった。

 

 これは今でも治らず、ここに書くのも忍びないが、片付けがどうしてもできないのは変わらない。片付けをしようと思ってもついつい手に取ってしまった本を読んだり、スマホの着信があれば気が逸れ、そこからYouTubeを開いてしまったりとなかなかうまくいかない。

 

 また、私自身注意欠如型だとは前述したが、ADHDの症例は完全に分断できるわけではなく、私にも多動性、つまり「ジャイアン型」にあたる部分が少なからずある。予定を立てるということが苦手で、基本的にその日のうちに思い立って行動をしたり、本が好きなので、古本屋や本屋に行くと見境なく本を買ってしまうこともある。それにたちが悪いことに、同じ本を買っていたりすることもある。

 

 発達障害の認知度が高まったことで、どうしても発達障害の良い面だけがフューチャーされがちだ。例えば、トーマス・エジソンASD自閉症スペクトラム)だったとか、ADHDだとスティーブ・ジョブズやウィル・スミス、黒柳徹子などが有名だ。どの病気や障害でも有名人がそれを患っていると、その有名人たちと同じようなポテンシャルを持っているのではないかと錯覚されがちだ。特に、精神にかかわる障害だと尚更その傾向は強まっていく。精神だけではなく、IQにも同じようなことが言えると思う。たとえ人口の数パーセントしかいない高IQだったとしても、その高IQというレッテルを貼った人たちで一括りにしてしまうのは、間違っている。だから、いかに発達障害で成功している人がいても、発達障害の人は一芸に秀でていてすごい功績を残すかもしれないというバイアスは捨ててほしい。発達障害を抱える人間も千差万別だし、発達障害者という一括りにすることは差別の萌芽になるのではないかと思う。

 

 結局のところ、私が何を言いたいのかというと私は障害を抱えて生きているけれど、ただの一人の人間だ、ということだ。どんな人間だって名前のない障害を抱えていきていると私は思う。例えば、骨折したところが雨の日に痛くなるとか、人の話をよく聞けないとか、自分の小鼻が大きいとか、そんな些細なことだって他人にはない自分だけの障害だと私は思う。私の障害は、今の社会で名前がついているにすぎないのだと思う。だから、私は私の障害ごと自分だと思っている。

 

次回は、ADHDよりもさらに私を悩ませている解離性同一性障害について書きたいと思う。ここまで、長い文章を読んでくれた方はありがとうございます。